創業物語

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犬小屋作りからスタート

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父の修業時代写真

もともと家計が貧しかった為中学卒業と同時に弟子入りして大工になった父は32年前の昭和51年当時地元の工務店で現場監督をしていました。
過労から急性腎炎をわずらい余命3年と医者から言われました。幸運にも何とか2年で退院できましたが、その間に勤めていた工務店を解雇され、家族を養い当座の糊口をしのぐため自宅の横で10円の飴など売る三文駄菓子屋を始めました。
父、母、祖母と3人で切り盛りし、退院後の2年間を何とか食いつなぎました。

その後、どうしても建築の世界に戻りたいと、43年前に工務店を立ち上げました。
最初は自己資金ゼロ、6畳1間のオンボロ事務所を月1万円で借りることができ何とかスタートさせました。当然、社員はなし、社長一人で、最初の3年間は地道に、犬小屋を作ったり、知り合いの家の改装仕事をもらったり、仕事がない時は屋台のテキ屋をやったりして細々とやっていました。

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父の会社創業時代写真

しかし、苦労の甲斐あって3年目に思いもかけず転機が訪れました。
全国に畜産の牛舎を建てる会社があり、そこの依頼を受け、立て続けに大規模な受注が舞い込み一気に売り上げが3億近くになりました。これには父自身もビックリしたそうです。
その勢いに乗って、気合いで翌年には1万円事務所から自社事務所を建てました。いま考えればちょっと無謀かと思いますが、当時は日本全体景気が良く、建てれば建てた分だけ売れるという時代でしたので可能でした。

日本の好景気の中、会社も除々に発展し、大工さんも常時10人以上を使うようになりました。
そんな中、いまでは地元中堅に発展したハウスメーカーがまだプレハブで営業していた頃から立ち上げに関わり、少しづつですが仕事がもらえるようになりました。
一番忙しかった時には、朝から午後3時までに1棟を建て、そこから深夜まで投光器を点けてもう1棟を建てる日が3日連続続きました。さすがに3日目には疲れがピークになりダウンしたそうです。まさに、根性です。

商売好きな家系

もともと、商売の好きな家系でしょうか、いろいろなことに父は手を出してきました。
当時を覚えているでしょうか?
現在のように大きなスーパーではなく小規模な小さなスーパーが町のあちこちに点在していて、その立ち上げを仲間と行ったり、居酒屋をアシストし、自ら厨房に立って板前をしたり、はたまた日本で未開拓だった人工キノコ栽培に参画したりと、山師を地でいっていました。
いずれも、結果的には失敗に終わってしまいましたが、半面改めて人脈の多さには感心してしまいます。
私も中学生の時、“忙しいので来い”と言われ泣きべそをかきながら、いやいやビヤガーデンで焼き鳥を焼くアルバイトをさせられた思いでがあります。
細かいことは記憶にないのですが、なぜか、焦げて売り物にならない真っ黒な砂肝を食べ、その苦い味が今でも舌に残っているのはなぜだろうと思ってしまいます。

もうそろそろ助けないと…

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塩川幼少期写真

私は、昭和46年3月16日の豊橋生まれ豊橋育ちです。いろいろ言う人もいますが、私は本当にこの町が好きです。
子供の頃の思い出は、実家がやっていた駄菓子屋を私も小学生から手伝っていました。
駄菓子以外にも、ラーメン、天ぷら、焼きそば、たこ焼き、当時流行りのインベーダーゲームも置いてあったので結構にぎやかくて、私も小学校から帰ると店番や掃除やたまにお盆持ちをしていました。

算数は大の苦手でしたが、小学校低学年でレジもやるときには、実際おつりの計算をすることで、リアルにお金が動く瞬間、“間違えたらどうしよう”というあまり子供らしくない緊張感を味わった思い出があります。

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父と母の談笑風景

テレビで見るお父さんのイメージは「サザエさん」のマスオさんや「ドラえもん」のパパのようにスーツで朝会社に行って夜決まった時間に帰るというイメージですが、うちの場合、父が会社を興したばかりということもあり、一緒に晩御飯を食べたのは数回、家族旅行に行ったのも小学校6年間に1回だけでした。
それが、当り前と思っていましたし、仕事で頑張っているんだと理解していたので全く気になりませんでした。

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サラリーマン時代の塩川

高師台中学→桜ケ丘高校→1浪→東京の私大法律学科を卒業して、地元にUターンで戻って来ましたが、昔から父の苦労を間近で見ていていたせいか建築業界だけは正直避けていましたので、全く畑の違う花卉輸入販売の会社で営業の仕事をしていました。


しかし、平成14年父が胃潰瘍と肝臓の病気で入院した頃、ずっと苦労してきた父をもうそろそろ助けないといけないかなーと思い、会社を辞め父の元で修業を始めました。

結局、私も商売人の子供でやってみたらすごく楽しいと感じました。
はじめは全く分からない状態でしたが、“どんな人もはじめは素人”と自分に言い聞かせ現場に貼りつきノートを取り、本で調べたり、現場の職人さんに聞きながら体で覚え6年間新築の監督業をしました。
すごく建築は奥が深く膨大に覚えることがあると17年経ったいまでも思います。

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旧店舗の外観写真

そんな中、数多くの方に家の修理やリフォームの見積り依頼を受ける時期が続き、もっと本格的にお客様の困った事を解決できる方法はないかと考え平成20年に独立し、ありがとうの家を独りでオープンさせました。


人対人の関係を大事にしています

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職人さんとの作業確認風景

それから14年、お陰様で本当に多くの方の支えもあり何とかここまで順調にやってこられました。
リフォームに携わらせていただいたお客様は1200名を超え、網戸の張替から全面改修までお家に関してはありとあらゆることができる体制が完成しました。
その間、全幅の信頼を置く一級建築士の監督岡田さん、経理、コーディネートの女性スタッフが入り、現在の4名体制になり各々の分野でプロとしての誇りを持って日々仕事に取り組んでいます。

遅ればせながら私も45歳で二級建築士と宅地建物取引主任の資格を同時に取得しましたが日進月歩の世界なので日々アンテナを張って新しい情報を仕入れないといけないなーと痛感しています。


お店を6年前に現在の北山町に移転。
最初に出したお店の3倍も広くゆったりと打ち合わせができるショールームになりました。
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新店舗の外観写真(2014年北山町にリニューアルオープン)

最近つくづく想う事。それは、リフォームで一番大事なことは「お客様との信頼関係」、これに尽きると思います。 お客様のお宅を訪問し、「あの業者にお願いして失敗した」「信頼してたのに騙された」「こんなはずじゃなかった」など耳にするたび同業者として許せないですし、すごく残念に思います。

もちろん価格も大事ですが、それ以上に例えば、雨漏りがあった場合や台風で瓦が飛んでいった場合など急を要する時こそ“信頼たるお家の掛かりつけ医”のような存在が必要になります。

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新店舗前で撮影する 代表 塩川昌志

弊社の多くのお客様も何かあったら“ありがとうの家に電話するね”と言ってくださいます。本当にありがたいかぎりです。
弊社はこの「人対人の関係」を大事にしています。いえ、それが全てだと思っています。
弊社と縁して下さった方に最大限幸せのお手伝いをしていくこと。これが使命だと感じています。


これからも精一杯誠意を持ってリフォーム・増改築専門店として地域に愛される会社に成長してまいりますので、どうぞよろしくお願いいたします。

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